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INTERVIEW
2007.2.23 UP
世界各国のシャーマニズム儀礼や多種多様なパフォーマンスを研究し、日本を代表する舞踊評論家、石井達朗さん。民族舞踊、バレエ、コンテンポラリーダンス、そして舞踏を巡る「身体への問いかけ」を語っていただきました。

いつの間にか舞踊評論家

私はもともとアジアの様々な地域を歩いて、シャーマニズム的な舞踊、祭祀、そういった空間の中での身体のあり方などに興味がありました。それは、一般的な意味での素晴らしいダンサー、素晴らしい作品というのとは違います。誰も行ったことがないような地域で行われている、宗教と身体がひとつになっているような現われ方には、独特の磁場があります。同時に、60年代に生まれたポスト・モダンダンス以降の欧米や日本の舞踊界の前線でどんなことが起こっているのか、またジャンルに捉われないパフォーマンスアートなど、今現在の最前線の事柄にもっとも惹かれていたし、研究対象としてありました。新聞にダンスの評を書く時に、「肩書きを書いてくれ」って言われたんです。「・・・大学教授」というのも嫌だなと思って、「舞踊評論家」って書いた。そうしたらいつの間にか、そうなってしまったんですね。私は人類学者とか民俗学者がそれぞれの研究領域でやっているのとは違って、もっとトータルな身体と場の捕らえ方というのができないかと思ったんです。一般的には「パフォーマンス研究」といいますか。少しずつやっているうちに、コンテンポラリーダンス、現代舞踊の評論を頼まれたり、日本や海外の舞踊関連の審査員をやったり、その関係の仕事ばかりになってしまいました。そのため、今はあまり祭祀などのフィールドワークには出かけられません。

評論―社会文化へのプレゼンテーション

舞踊を評論できるきちんとしたメディアが、非常にすくないですね。私は新聞や雑誌に書いていますが、新聞に書く原稿は800字程度。これを評論と言えるのかな、といつも思います。コラムみたいな感じになってしまいますね。ただし、読者が圧倒的に多いし、ダンスの領域以外の人も幅広く読んでくれるのが新聞の強みです。少ない字数の中で、何を言い何を言わないのか、いつも悪戦苦闘します。評論というのは、その人が観た舞台をどう受け止めたか、それを不特定多数の人たちにどう伝えるか、ということが問われます。その場合、どういう媒体に書くのかということで、書く内容も違ってきます。新聞に800字で書くのか、専門的な雑誌に8000字くらいで書くのかというのでは、書き方も違ってくるわけです。ニューヨークタイムズの日曜版を見ていると、巨大なアート欄があり、評論家がたっぷりと論陣を張っている。そういうのを見ると、日本できちんと舞踊評論が成り立つためには、もっといろんな媒体を作っていかなくてはいけないと思います。舞踊評論というは、私にとっては、劇場という小さな閉鎖的な空間で起こっていることを、歴史・社会・文化・政治や世界という大きな文脈とリンクさせ、どんなふうに自分の思考の回路をプレゼンテーションをしていくのか、ということだと思っています。

赤ちゃんが動くような自然体を取り戻す

私は、踊り手になろうと思ってダンスそのものはやったことないんですけど、体を動かすのは大好きなのでインドの武術舞踊のワークショップに参加したり、その他、体を使う様々なワークショップには参加してきました。それは赤ちゃんが動くような自然体を取り戻したいということでもあるんです。人は「動く」という本能を持っていますが、お母さんのお腹から出るやいなや社会文化的に無限の情報をインプットされて、体の動きのパターンが形成されてゆく。たとえば女の子が肩をいからせて歩いていたら、お母さんから「女の子なんだから」って言われる。男の子がママゴトやっていたら「男の子のくせに」って言われますよね。体を動かすのは自由だって思っていても、そんなふうにして体の表し方が規制されていくわけです。動き方を学ぶって言うよりも、本来の姿に戻るっていうことでもあると思うんですね。今の世の中は圧倒的に視覚優先ですが、皮膚の感覚つまり触覚とか、匂いの嗅覚とか、動きと五感が連動していることも大切です。

今そこに自分がいる

コンテンポラリーダンスはいわゆる「芸術です」ということから離れて、すごく日常と繋がってきてますね。ダンサーという特権的に選ばれた特殊な訓練をした人たちがやるのではなくて、日常を生きて、いろんなことを感じていろんなことを考えている体というものが舞台に立つ。普段生きていることとの繋がりの中で何を表現するのかということです。現実からピョンッと飛び越えてもいいし、あるいはすごく現実的なことでもいいんですね。いずれにしろコンテンポラリーダンスというのは、「今ここに自分がいる」っていうことと、外界がどう繋がっているのか、いないのかということになります。

決まったスタイルがないダンス

日本のコンテンポラリーダンスは、特殊な状況の中で進行している。さまざまなダンスの組織の中から抜け出して、もっと自分の表現をしたい、という人たちが出てきた。あるいはダンスなんかに全然関係なく、ダンスのダの字も知らない人が舞踊表現を始めて、認められてしまったりということもあります。日本人の振付家の現代バレエ作品が国際的に評価を得るというのはまだ難しいですけれども、コンテンポラリーダンスでは、オリジナルな創造性が評価されますから、勅使川原三郎以来、国際的に活躍する舞踊家・振付家が出てきています。国籍とか伝統とかは、まったく関係ないんですね。こういうことは、ダンスの歴史を見てもほとんどなかった。決まったスタイルとか制約がないわけですから、何やっても自由。いわゆる「コンテンポラリーダンスのためのテクニック」というのがないわけです。それぞれが自分にとっての技術というのを見い出し磨かなければならない。

身体の強度

ですから、身一つで舞台に立ったときに、そこで何ができるのかということが問われます。国籍、人種、性別、年齢とか関係なく、みんな共通の地盤の上に立っているから、民主的です。上手い下手も関係ないし、よく踊れるとか、踊れないとかいうことも関係ない。極端な話、技術の有無も関係ないわけです。ただし技術がなくてダンサーとしてやるんだったら、舞台に立ったときに「自分には技術は関係ないんだ」っていうだけの必然性と説得力、技術に取って代わる身体の強度、そういうものが問われます。それがあれば、ダメな身体、ヘタな技術であっても、「表現者」として評価されることはありえます。

次号へ続く 2007.3.9 UP
( 2007年1月 渋谷にて TEXT:飯名尚人 PHOTO:杉本青子 )
INTERVIEW:石井達朗 Part 1 / Part 2
Profile:
石井達朗 いしい たつろう

慶応義塾大学教授
関心領域は、舞踊、祭祀、呪術芸能、アクロバット、サーカス、ジェンダー/セクシュアリティからみる身体文化。舞踊評を「朝日新聞」「ダンスマガジン」ほかさまざまな媒体に執筆。カイロ国際実験演劇祭(2002年)、朝日舞台芸術賞(2001〜4年)、トヨタコレオグラフィーアワード(2006年)などの審査員、韓国ソウルの国立劇場における舞踏フェスティバル実行委員長(2005年)

著書に『身体の臨界点』『アクロバットとダンス』『ポリセクシュアル・ラブ──ひとつではない愛のかたち』『男装論』『アジア、旅と身体のコスモス』(いずれも青弓社)、『サーカスを一本指で支えた男』(文遊社)、『サーカスのフィルモロジー──落下と飛翔の100年』『異装のセクシュアリティ』(ともに新宿書房)。『アウラを放つ闇──身体行為のスピリット・ジャーニー』(PARCO出版)、など
共著に『天人戯楽──大野一雄の世界』(青弓社)、『見世物小屋の文化誌』(新宿書房)など

関連サイト:
2007.3.2〜 [SPECIAL]「身体の冒険─ダンス・バレエ・舞踏」

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