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INTERVIEW
2007.3.9 UP
日本から生まれたダンス「舞踏」。言葉を使ってイメージを伝える独特の舞踏メソッドを分析する舞踊評論家、石井達朗さん。儀礼の中で引き起こされる「トランス」、身体文化、現代社会の在り方なども含めて縦横無尽に語っていただきました。

浮世絵、「具体」、舞踏

誰から影響を受けたわけでもなく、純粋に日本の土壌から出てきたもので、世界的になったものといったら、浮世絵、関西の前衛美術家集団「具体」、それに舞踏ですね。変な組み合わせですけど、本当に誰の真似でもなく、この小さな島国から出て国際的に影響を与えるぐらいのアートの流れを創ったといえます。
日本では舞踏というと、アンダーグラウンドですけども、海外では舞踏に関する関心ってすごく高い。欧米でも、韓国などのアジア圏でも、舞踊家に会うと「ブトー」について質問されます。でも、日本の舞踏家のところに2、3週間いただけで「私は日本で舞踏を学んだ」って言って公演している人もいたり…。そういう誤った形で広まって行く危険性も大いにあります。白塗り・スキンヘッドで、体を歪曲させていれば、それが舞踏だっていうように、外側からスタイルだけ真似てしまう人もいる。自分の体をどう考えるか、自分の体とどう出会うのか、というのが舞踏です。舞踏は新しく作られたというよりも、元々あったのに近代化の中で消去されてしまったものを取り戻そうとすることとも言えます。別に白塗りにしなくてもいいし、スキンヘッドにしなくたっていい。背広着てネクタイして舞台に立っても舞踏は出来るわけです。シャーマニズム的舞踊、民族舞踊、バレエ、モダンダンス、コンテンポラリーダンスまで含めて、「人が表現者として踊る」という長い長い歴史があるけれど、天才土方巽を始祖として仰ぎ、日本で生まれた舞踏は、世界の舞踊史にすごく大きなエポック印したと思います。

みみずが千匹背中を歩いている、さあそれを踊って!

例えばバレエだったら、何十年も猛特訓をしますね。ところが、舞踏はどうやって練習するのか誰にも分からないわけです。「みみずが千匹背中を歩いている、さあそれを踊って!」って言われても、誰も出来ないわけですよね。これは言葉が喚起する身体の根源的なイメージですから。土方巽は、舞踏や現代舞踊に関心のある人たちばかりにでなく、すべての人たちに大きな宿題を残したと思います。それは、自分の身体をどう考え、それとどう向かい合い、身体の表現をどのようにやっていくのかということです。
そうなると、テクニックって何だということになる。エアロビクスや体操競技だったら、これがテクニックです、と言えるものが明確にわかる。これが舞踏となると、心と体が分けられない領域にある。胸がドキドキすると汗かいたりしますよね。そんなふうに、心と体がひっぱりあって一つになっている方向に向うことが舞踏なので、テクニックって何かといわれるとすごく難しい。舞踏ではきれいに回転できなくてもいい。逆に回転できない、無骨さ、不器用さ、醜さ、力のなさが舞踏になったりする。そこに内発的な強度が作用していれば、バレリーナの美しい回転より、パフォーマンスとしての力を持つわけです。舞踏家になるということは、無から一つひとつを暗中模索しながら手探りでやっていく作業です。それが出来ないと、舞踏家にはなれません。

ダンスと言葉

土方巽が書いた『病める舞姫』は舞踏の原点と言ってもいいですが、非常に難解です。ダンサーは踊るんだから言葉がいらない、と思っている人が多いけれども、天才的なダンサーというのは詩人に匹敵するくらい言葉の豊かなイメージを持ってる。自分のイメージを、豊かに言語化できる能力を持ってる人が多いですね。日本人のコミュニケーションは、言語的にはいつも不十分です。逆にその不十分さをよしとして日本の美学にしてきた部分もある。ただし、言葉のコミュニケーション不足のはけ口がダンスであってはダメなんです。

儀礼の中のダンス

スリランカや南インド、インドネシアなどの幾つかの地域で、日常的に生きることと宗教的な宇宙がひとつになっている空間があって、そういう中での身体的表れはすごく強力です。私はそういうものに惹かれます。儀礼の空間では、踊るのは皆プロのダンサーではなくて、普通の人たちです。農作業している人とか、畑仕事する人とか。ところが、そこで現れてくる身体的なものというのが、欧米の訓練されたダンサーたちに劣らないすごい身体的強度を持つことがある。それは、なぜか、ということをいつも思います。多分、コスモロジー(宇宙観)があり、それを共有できる場があるということも一つの理由でしょう。

日常的意識がプツっと切れる

近代以降の社会は、身体と周りの世界が、見えない力によってつながっているというコスモロジーをすっかり失ってしまっています。我々の価値観というのは、より大きな家に住んで、いい車が欲しい、お金はあればあるほど幸福・・・という即物的な価値観になっています。現代の舞踊というのは、そんな価値観が万能の世界で、どこかに忘れてきた物や事を、一つひとつ落穂拾いのように身体に回収することなんですね。南インドでもバリ島でも、トランスが頻繁に起こります。我々の社会の中では、異常なこととして排除されていますが、日常的意識がプツっと切れるようなことは、彼らの空間ではむしろ必要なことです。意識の空白状態の中での目に見えないものとのコミュニケーションを持って、また日常の状態に戻って生活する。生きてゆくというのはそういうサイクルの中にいるということです。われわれはそういうサイクルを失ってしまった代わりに、レジャーとかエンターテインメントに囲まれているわけです。

嘘と真実が紙一重

広い意味ではすべての表現行為、身体的な表れ、そういうものは「パフォーマンス」と呼んでいいんです。バレエもコンテンポラリーダンスも日本舞踊も歌舞伎も能も、全部パフォーマンスなわけです。お辞儀するとか握手する、それも社会的なパフォーマンスですよね。儀礼の中でトランスが起きて、口から泡吹いて倒れて、泥の中を転げまわる人がいる。それがいつも同じ儀礼の中で起こると、それもひとつのパフォーマンスです。虚実皮膜といいます。嘘と真実が紙一重のところで、トランスというのも半分くらい演技としてやっている部分もある。しかし演技としてやっているうちに、本当にトランスになってしまうこともあるんですね。

現実のもっとずっと先へ

なるべくダンスを狭い閉鎖空間に押し込めておかずに、もっと社会的なこととか文化的なこととかにリンクさせながら考えていきたい、というのはありますね。リンクできないものはあまり評価の対象にならない、ということになっちゃいます。
ダンスに限らず、アーティストというのは、現実に対する批判的なスタンスを常にもっている必要がある。と同時に、現実のもっとずっと先を見てないけない。究極の自由はアートの中にしかないからです。

( 2007年1月 渋谷にて TEXT:飯名尚人 PHOTO:杉本青子 )
INTERVIEW:石井達朗 Part 1 / Part 2
Profile:
石井達朗 いしい たつろう

慶応義塾大学教授
関心領域は、舞踊、祭祀、呪術芸能、アクロバット、サーカス、ジェンダー/セクシュアリティからみる身体文化。舞踊評を「朝日新聞」「ダンスマガジン」ほかさまざまな媒体に執筆。カイロ国際実験演劇祭(2002年)、朝日舞台芸術賞(2001〜4年)、トヨタコレオグラフィーアワード(2006年)などの審査員、韓国ソウルの国立劇場における舞踏フェスティバル実行委員長(2005年)

著書に『身体の臨界点』『アクロバットとダンス』『ポリセクシュアル・ラブ──ひとつではない愛のかたち』『男装論』『アジア、旅と身体のコスモス』(いずれも青弓社)、『サーカスを一本指で支えた男』(文遊社)、『サーカスのフィルモロジー──落下と飛翔の100年』『異装のセクシュアリティ』(ともに新宿書房)。『アウラを放つ闇──身体行為のスピリット・ジャーニー』(PARCO出版)、など
共著に『天人戯楽──大野一雄の世界』(青弓社)、『見世物小屋の文化誌』(新宿書房)など

関連サイト:
2007.3.2〜 [SPECIAL]「身体の冒険─ダンス・バレエ・舞踏」

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