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INTERVIEW
石井聰亙
2007.12.14 UP
1976年、8ミリ映画『高校大パニック』で衝撃的なデビューを飾って以来、30年余の映画監督歴を数える石井聰亙さん。このたび、昨年末の初期監督作品を収録したDVD BOX Iに続き、DVDBOX IIの刊行にあたり、自主映画作家としての出発地点を振り返っていただいた。

私にとって映画とは…

石井聰亙

『高校大パニック』を撮り、それが評価された時点では、私にとって映画とは故郷の博多で夢中になって見てきたプログラム・ピクチャーに他なりませんでした。洋画も邦画も一緒くたで見られる二番館、三番館が映画体験の拠点であり、東映やくざ映画日活ロマンポルノ、あるいはペキンパー映画と同様に一種のエロ映画としてATG作品も見るといった状況がそこにはありました。

高校大パニック実験的な映像を基盤とする、いわゆる個人映画という領域がありうるという考え方自体その頃には持っていなかったのです。だからかならずしも、当時の自主映画へのアンチとしての『高校大パニック』という歴史的視点は正しくない。アメリカ映画のアクション巨編を自分たちなりのアプローチで再構成するというのが始まりでしたね。

表現媒体として映画を再発見

ただし『高校大パニック』に関して是非述べておかねばならないのは、そこには高校時代に日常的に感じていた鬱屈した感情を映画制作によって解き放つという側面が間違いなくあった、ということ。
大学に入ったのは映画制作の実際を学ぶためでしたが、そこに至る過程で、例えば自分には音楽で自分を表現する才能がない、あるいは絵を描いたり漫画家になる才能もない、といった形で様々な断念を経験していました。それが、8ミリキャメラを手にすることで初めて、高校時代の怨念を表現することが出来た。表現媒体として映画を改めて発見した、という経験はとても大きかったと思います。
現在に至るまで私は映画を「作りたいから作る」という一点でやってきた。極端に言えば、完成度というか説得力というのは、そうした表現衝動に優先するものではありません。

「パンク」と「サイケデリック」は両立

1/880000の孤独/突撃!博多愚連隊そういう意味でも、今、振り返って思うのは『高校大パニック』の次に『1/880000の孤独』('77年)を撮れた、ということの重要性です。
『高校大パニック』が当時の自主映画界においてストレートな物語性を追求した点で異色だったのは確かですが、それと対照的な自分を次回作で出せた。内省的な、あるいは自閉的な自己へのこだわりというのはいつもあります。それを映画に出来たことで、次に『突撃!博多愚連隊』('78年)に向かうことが出来たとすら思えるのです。
これは深作欣二監督や中島貞夫監督が連発していた東映の実録路線への自分なりの対抗心の発露であったわけですが、こうした狂騒的、外向的部分を映画にするに際して、同時に精神的、内発的な自己を意識している自分がそこにはいた。あくまで外に向かって弾けていく「パンク」と精神的志向性の強い「サイケデリック」。いわば「パンク」と「サイケデリック」は両立しているのです。

ゼロと蓄積と

石井聰亙さんただしボックスセットを時期的に二分して「パンク」「サイケデリック」としたのにも自分なりの理由づけはあります。
初期「パンク・イヤーズ」において自分たちはゼロから映画を作り出すことが出来た。一方それらを蓄積することの成果が「サイケデリック・イヤーズ」で試されたのだということ。
思い出すまいとしていたところもあるのですが、この時期、脚本が完成しながら映画に出来なかったものが20本ぐらいある。規模が大きくなってしまって製作に至らなかった。単純計算すると年に2本くらいです。それが、やはりゼロから作ってしまうことの出来た時代との違いでしょうか。この時代に対してはやはり口惜しさの記憶も、共にあります。

映像主義者、ではあるものの……

石井聰亙さん近年、とりわけ2000年以降ですが映画の表現方法の革新が相次いでいます。要するに編集や合成や撮影にまで及んだデジタルの発達と簡便化によるドラマ構造のサンプリング化。そういった動きが例えばウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』やタランティーノ監督達の作品に反映しているのですが、それは日本でも同様で、かつてならば「これはアニメでしか出来ないね」と一蹴された類の企画であっても現在ならば十分成立する、という技術的次元にまで来ています。「サイケデリック・イヤーズ」に実現できなかった私の企画に、今ならばやれるものもありそうです。
こうした動向に連携して、私を、タランティーノやウォシャウスキー兄弟の同時代人と評する人もいます。しかし私には彼らへの共感と同様にタルコフスキー監督や川島雄三監督等への深い賞賛の感情もあります。あるいは田中登監督、神代辰巳監督のロマンポルノ、また深作監督の『仁義の墓場』等への熱い思いも。そこにはもちろん娯楽映画としての需要を満たしつつ、人間の哀しみが率直に表現されていた。エロスを昇華した聖なる領域にも私は感銘を受けていました。

※注:下記の用語解説としてウィキペディアの該当ページにリンクを張っています。
8ミリ映画→8ミリ ・自主映画 ・プログラム・ピクチャー→プログラムピクチャー ・東映のやくざ映画→東映実録路線 ・日活ロマンポルノ ・ATG映画→日本アート・シアター・ギルド

次号へ続く
(2007年12月 渋谷にて 
TEXT:上島春彦/映画批評家 PHOTO:室谷亜紀/office北北西)

INTERVIEW:石井聰亙 Part 1 / Part 2

Profile: 石井聰亙
いしいそうご 映画監督

1957年、福岡県に生まれる。1976年、日本大学芸術学部入学直後、8mm映画デビュー作『高校大パニック』を撮り、熱狂的な支持層を得る。大学卒業制作の'80年『狂い咲きサンダーロード』でジャパニーズ・ニューウェイブの急先鋒となる。'82年『爆裂都市Burst City』を発表。斬新で前衛的なアクション映画を撮り続け、'84年の『逆噴射家族』はイタリアの第8回サルソ映画祭グランプリ等、国内のみならず海外でも高い評価を受ける。その前後からジャパニーズパンク・ニューウェーブシーンと共闘した数々の音楽ビデオと実験的短編映画製作に打ち込み、'94年の『エンジェル・ダスト』(バーミンガム映画祭グランプリ)で再び長編映画製作にカムバ ック、『水の中の八月』('95年)、『ユメノ銀河』('96年・オスロ映画祭グランプリ)と作品を発表し、新型時代劇大作『五条霊戦記』('00年)ののち、21世紀に入ってからは映画のジャンルを超越したハイパーエキサイトムービー『ELECTRIC DRAGON 80000V』('01年)、『DEAD END RUN』('02年)を発表。続けて2005年には、フルデジタル機材を使用して撮影も兼ねた『鏡心・完全版』を、デビュー時以来の個人制作ベースで製作後、全国上映ツアーを行った。テレビでは『私立探偵 濱マイク 第8話・時よ止まれ、君は美しい』('02年)等を監督。その他、ミュージッククリップ、ビデオアート、写真、ライブ活動等、様々なメィアで独自の作品世界を追求している。

石井聰亙公式サイト
http://www.ishiisogo.com/

 
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