DVDの内容紹介
●金髪のボブで、頭にひなぎくの花輪を飾った姉、こげ茶の髪をうさぎの耳のように結び、レースのショールを首にまとった妹。
おしゃれした二人はまるで往年のハリウッド女優。さあ男をひっかけにレッツ・ゴー!
食事をおごらせ、さんざんバカ騒ぎした後、二人は嘘泣きしてケラケラ笑いながら逃げてしまう。
「男は“愛してる”って言う以外に、どうして“卵”って言えないの?」
部屋の中で彼女たちは、牛乳のお風呂に入り、紙を飾って燃やし、グラビアを切り抜いているうちに互いの身体をちょん切り初め、ついには画面全体がコマ切れ。
色ズレや、実験的な効果音、光学処理、唐突な場面展開など、映画の常識も破壊。
でもユーモアの中に、シュールな不安が。
自転車で工場に向かう男たちには彼女が見えない。「誰も私たちに気がつかないわ」「どうして?」「私たちはいないのかしら」
'60年代といえばゴダール、ウォーホル、パゾリーニ、アントニオーニなどの名作の数々。
でも'91年になってようやく公開された女性監督ヒティロバの幻の名作『ひなぎく』をはずすことは出来ない。
物語、撮影手法はときに同時代のゴダール以上の実験精神に富み、観念的というよりむしろオシャレな反逆精神として、現代の女の子の間で自分たちの物語として愛されている。
「私たちは生きているのよ 生きている! 生きている!」「ベストをつくせたら出直すことが出来るの?」
そして最後の字幕には……「踏みつぶされたサラダだけをかわいそうと思わない人々に、この映画を捧げる」。
ちなみにタイトルのひなぎくはチェコの花言葉で「貞淑」。
●コメント
2人の女のこ。2人はこの世の無用の長物で余計ものである。そのことを2人は良く分かっている。役に立たない無力な少女達。だからこそ彼女達は笑う。おしゃれする、お化粧する、男達をだます、走る、ダンスする。遊ぶことだけが彼女達にできること。愉快なばか騒ぎと絶対に本当のことを言わないこと。
それが彼女達の戦闘手段。やつらを「ぎゃふん」と言わせるための。
死ネ死ネ死ネ死ネ!分かってるよ。私達だって「生きて」いるのよ。
───岡崎京子(マンガ家)
"ひなぎく"のあたらしさ
「美のためには食を拒んで死ぬことさえできる、おそるべき精神主義者たち」
と、かつてわたしはある少女論にかこつけて書いた。少女にとって、この世にこわい権威は何もない。体制側のヤボなオジさんたちとは、はじめから完全にちがう倫理の下で生きているのだから。そう思いつつ二人の少女のハチャメチャぶりを見ていると、最初と途中に出てくる「鉄」のイメ−ジや終わり方がいかにも象徴的に思えてきた。それにしても六〇年代のさなか、こんな皮肉な映画がカーテンの向こう側で生まれていたとは。チェコの映画人のしたたかさに、あらためて脱帽させられる。 ───矢川澄子(詩人)
彼女達は、無敵である。
若く、美しく、スタイルがよく、センスがいい二人の女性に誰が勝つことができよう。だが、無敵である一番の理由は、彼女二人を、誰も理解していないことである。無敵であることの、なんと華やかなことか。
そして、なんと淋しいことか。 ───鴻上尚史(劇作家・演出家)
この映画のふたりの女の子は
なんだか涙が出るほど自由に生きている。
可愛い服を着て、おいしいものをご馳走してもらって、
ダンスをして、いつも笑って・・・。
「ひなぎく」ほど悲しいくらい美しい映画は他にはないと思う。
───野宮真貴(ミュージシャン)
『私たちダメ人間
そのうえいつも忙しい
もっと易しい人生を考えなくちゃ
私たちになにが欠けてる?
死ネ死ネ死ネ死ネ!
とてもだめだわ
だめでも行こう
ビフテキ食べたい
...そんなひなぎく諸先輩方、
おかげさまでわたしたちもなんとか
生きてる生きてる生きてる生きてる
生きまくっております』 ───Kiiiiiii(U.T.&Lakin'/ミュージシャン)
久しぶりに「ひなぎく」を見て、マリエとマリエが現代への接点を持ち続けていることに驚いてしまった。こんなことを書くと、何年後かは笑われてしまうかもしれないけど、二人のメイクは『さくらん』の土屋アンナみたいだし、
部屋中の紙を切り刻み、あげく画面までも切り刻むシーンは、楽器の他に、身の回りの道具をパーカッションやノイズとしてコラージュのように使い、独特の音楽を奏でる、アメリカ人の姉妹デュオ、ココロージーだってきっと大好きなはずだ。パーティ前のテーブルに乗っかって、食べ物を投げ遊ぶ二人を見れば、松本人志の演じるキレキャラ、四万十川料理学校のキャシィ塚本をどうしても思い出してしまう。ひなぎくの二人が蒔いた種は、40年以上経った今日もどこかで花を咲かせているのだろう。
───江口宏志(ブックショップ『UTRECHT』代表)
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