●作品によせて
二〇一三年、もう二年前になりますね、あからさまな対立を無性に描きたかったのでした。能という古典的な演劇
形式を参考にした音楽劇のスタイルでそれをおこなうということも、はじめから構想のなかにありました。そして
この『地面と床』をつくったのです。
この芝居では、死者と生者とが対立します。この国の未来に希望を持つものとそうでない者とが対立します。その
ような対立の存在する社会に生きていることを、わたし自身がひしひしと感じていて、またそのことに困惑してい
ます。だからそうしたことを描きたかったのです。
音楽劇として構想されている『地面と床』の上演は、演技と音楽のぶつかりあいです。俳優たちのパフォーマンス
と、サンガツによるオリジナル音楽とが、全編にわたってせめぎあいます。
演技と音楽のこのせめぎあいは、両者は時間や場をつくりだすための、生産的なせめぎあいです。ですからこれは、
対立と似たものかもしれませんが、それとは非なるものです。
だからどうしたというのか? それがなんだというのか?
僕はそれを鮮やかに分析的にいうことはできません。ただ、それがなにか重要な、意義をもつことだとはおもうの
です。──岡田利規
●あらすじ
舞台は、そう遠くない未来の日本。その国は衰退に向かっている。戦争が始まる気配につつまれている。女の幽霊
が舞台上に現れる。生前二人の息子の母親であった彼女は、自分の墓を足繁く訪れる次男をいとおしく思う一方、
彼女を意に介さない長男とその嫁のことが恨めしい。胎内に新しい生命を宿す長男の妻・遥は、子どもの未来のた
め日本に見切りをつけ、この国を出ようと画策している。そして、自らを社会から切り離し内的亡命者のようにな
った女が現れ、もはや誰にも伝わらない言葉となってしまっている日本語を、舞台上であてどなくまくしたてる。
この地面の下で安らかに眠っていたいというなけなしの望みを抱く死者と、生まれいづる者の命を守ろうとする生
者との利害が、近未来の不穏な日本を背景に、対立する。
●チェルフィッチュ
岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして 1997 年に設立。 チェルフィッチュ(chelfitsch)とは、自分本位という意 味の英単語セルフィッシュ(selfish)が、明晰に発語されぬまま幼児語化した造語。
『三月の5日間』(第49回岸田國士戯曲賞受賞作品)などを経て、日常的所作を誇張しているような/していないようなだらだらとしてノ イジーな 身体性を持つようになる。その後も言葉と身体の関係性を軸に方法論を更新し続け現在に至る。