DVDの内容紹介
「問題自体が法を犯したものであれば、報道カメラマンは法を犯してもかまない…」
●ジャーナリスト界で「伝説」と語り継がれる報道写真家・福島菊次郎、90歳。
そのキャリアは敗戦直後、ヒロシマでの撮影に始まり66年になる。ピカドン、三里塚闘争、安保、東大安田講堂、水俣、ウーマンリブ、祝島――。
レンズを向けてきたのは激動の戦後・日本。真実を伝えるためには手段を選ばない。防衛庁を欺き、自衛隊と軍需産業内部に潜入取材して隠し撮り。その写真を発表後、暴漢に襲われ家を放火される。
それでもシャッターを切り続けた指はカメラの形に沿うように湾曲している。並々ならぬ執念、攻撃性を帯びた取材で生まれたのは、苦しみに悶える、ある一家の主、機動隊に槍を向け怒りを叫ぶ若者、不気味な兵器を前に笑顔を輝かせる男たちの姿だ。25万枚以上の、圧倒的な真実から我々は、権力に隠された「嘘っぱちの嘘っぱち」の日本を知ることになる。
冷静に時代を見つめ、この国に投げかけ続けた「疑問」を、今を生きる我々日本人に「遺言」として伝えはじめた時、東日本大震災が発生。福島第一原発事故を受け、菊次郎は真実を求め最後の現場に向かうのだった・・・。ヒロシマからフクシマへ。権力と戦い続けた老いた写真家は、今ここで「日本の伝説」となる。
この姿こそ真の反骨であろう
●6,000点もの写真を発表し一線で活躍する最中、菊次郎は保守化する日本に絶望し、無人島に渡る。胃がんを患いその生活を諦めるまで自給自足で生活した。「この国を攻撃しながら、この国から保護を受けることは出来ない」と年金は拒否。子からの援助も断り、自らの原稿料だけで生計を立てている。
現在は相棒犬ロクとの気ままな二人暮らし。散歩がてらスーパーに買い物に行き、手際よく夕飯をこしらえ、エンジンふかしたバイクを転がし、補聴器の注文へ。銀々と、穏やかに日々の生活を送る。一見すると、そこに居るのは一人の老人。
しかし、いざカメラを構えた瞬間、鋭く獲物をう“報道写真家・福島菊次郎”が姿を見せる。満身創痍、37キロの痩せた体で地面に這いつくばり、強風に煽られながら、それでも被写体を捉えようとするその姿は、一切の妥協を許さず、貫き通された福島菊次郎の信念の姿そのものである。
福島菊次郎(フクシマキクジロウ)●1921年山口県下松市生まれ。1946年より、郷里で時計店を営む一方、被爆地・広島で被爆者の撮影を始める。1952年、原爆症に苦しむ中村杉松さん一家と出会い、以降10年間に渡り中村一家の苦闘と崩壊の軌跡を克明に撮影し、「ピカドン ある原爆被災者の記録」を発表。そのリアリズムが高く評価され、1960年、日本写真批評家賞特別賞を受賞。受賞を機に上京、プロ写真家として活動を開始する。以降、ライフワークとなる被爆者の撮影を続ける一方、安保、学生運動、三里塚闘争、公害、自衛隊、原発など多岐にわたるテーマを精力的に取材する。「文藝春秋」「中央公論」など月刊総合誌を中心に、年間150ページ以上を発表するなど、フォトジャーナリズムの第一線で活躍。刊行した写真集は12冊に上る。
1982年、保守化する日本、自主規制を強めるメディアに絶望し、カメラマン生活と決別、瀬戸内海の無人島で自給自足の生活を始める。
1988年胃がんを患い、自給自足生活を断念。入院中に昭和天皇の下血報道を目にして強制退院、自らの写真をパネルに焼き、「戦争責任展」と銘打ち、日本全国で600回以上の写真展を開催。2000年より、写真では伝えられなかったことを文章で補う「写らなかった戦後」シリーズの執筆を始める。
2003年「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」(現代人文社)刊行。
2005年「写らなかった戦後2 菊次郎の海」(現代人文社)刊行。
2010年「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな」(現代人文社)刊行。 |